とあるメーカー社員のプライド。HDD交換作業にて

じつはGW前から仕事で客先対応に追われていたのだが(ボクはいまITの会社に勤めている)、色々と至難の挙句に無事バックアップが取れたので大事なデータを救うことができ、HDD(ハードディスク)の交換も昨日終わり、ホッと一息ついていた矢先のこと、、、
こんどは自宅のHDD(レコーダー)が飛んだ。5年保証が切れる寸前だったので慌ててコールしてオンサイト修理に来てもらったのだが、時すでに遅し。「残念ながら、ご臨終です」とのことだったので、仕方が無いから渋々ディスク交換を承諾した。子供の番組含めてけっこう大事なデータもあったので、かなりショックだ。。。泣
ボクのHDDレコーダーは東芝製で、5年前買った当時に周りから「マニアックですね〜」とか「これからはブルーレイじゃない?」とか言われて、肩身の狭いおもいをしたことがあり、今回大事なデータも消えてしまって収まりもつかなかったこともあって、わざとイジワルな質問をしてみた。

「容量も160GBだし、そろそろブルーレイとかに買えた方がいいかな〜??」

この一言がウチに来てくれた東芝社員の琴線に触れてしまったらしい。

「160GBでもまだまだ使えますよ。30GBのお客様もいらっしゃいますし・・・」

「いや、でもこの時代、さすがに容量上げとかないとさ、、、もう5年経って元とったと思うんだけど」

「そ〜ですね、この上だと500GBと1TBがありますよ〜」

なるほど、“ブルーレイ”の話は一切しない。そこで突っ込み方を変えてみた。

東芝のHDDレコーダーって他に無い機能が沢山ありますよね〜、編集機能とか・・・」

この一言も更に琴線に触れてしまった。とてつもなく長くなるのでもう書かない。でも、その人が東芝の正社員で開発の仕事に携わってたこと、東芝のHDDレコーダーに並々ならぬ思い入れがあること、一時期HDD事業撤退の噂がありながら逆に富士通のHDD事業を買収してしまったこと、そして何よりも、、、

「これからがんばります!」

の一言。これには正直心打たれてしまった。だいぶ厳しい事情もあるだろうに心がまるで折れてない。いや〜、あっぱれあっぱれ。負けました。こういうお方にはもう、かける言葉はこの一言しかない。

「これからもがんばってください。」

その晩、ビックカメラのWEBサイトでHDDレコーダーを見たら、華々しく高額なブルーレイ商品に並んで、東芝製HDDレコーダーも結構がんばってるみたいだ。なんと1TBで8万円程度。翻ってブルーレイは500GBで15万円。う〜む、実はこの手もあるのかもしれない。。。笑

故人を偲んで、、“岐阜の義妹”さん書込みありがとうございました!

前回更新して以来、この日記を見ていなかったもので、返事が遅れて申し訳ございません。もともとブログの更新頻度は高くないのですが、今回ばかりは放置しながらも、どこかでご家族の方がこの日記を見て頂けるのではと密かに期しておりました。こうしてご連絡を頂いて、ご家族の様子を少しでも窺うことが出来ましたので、(言い方が可笑しいかもしれませんが)多少救われた想いがしております。

お義兄さんの生前、私は大変お世話になっておりましたので、今でも感謝し尽せぬ思いでいっぱいです。こちらこそ、本当にありがとうございました。私と同じような思いを抱いている者は非常に多く、実は明日、“お義兄さんを偲ぶ”と称し、名古屋の案件で共に働いていた内輪メンバーでささやかな会を催す予定です。そのメンバーの一人はこう申しております。

“お義兄さん”は間違いなく、私の意識変革のきっかけだったり、一部だったりしています。そのブログが更新されないのは悲しいですが、“お義兄さん”に影響を受けているヒトは沢山いると思います。できればご家族の方に、本メッセージを贈って頂ければと思います。

さて、あまり湿っぽい話ばかりでも何ですので、、、その名古屋の案件で私は約2年程度、お義兄さんと一緒に名古屋−東京間を行ったり来たりしておりましたが、今から考えると、とてもタフでアグレッシブな、そして密度の濃い大変有意義な時間を過ごすことが出来ました。私を始めとしてなかなか言うことを聞かないアクの強いメンバーが集まっておりましたので、お義兄さんには、さぞご迷惑をおかけしたと思います(笑)。そんな自我の強いメンバーに対して、伸び伸びと仕事が出来るようにお義兄さんはいつも気配って下さいました。我々にとってお義兄さんは、責任感があって、大変部下の面倒見の良い、頼れる上司でした。

あれから数年が経ち、私も2児の父親となりました(2人とも♂ですが)。前の日記にも書いたとおり、私はどんなに忙しくても家族想いなお義兄さんを慕っておりましたので、それを模範として、私もそのように在りたいと考えております。このようにお義兄さんから影響を受けて、その部分部分を継承している人間は、お義兄さんのご家族や私の仲間内のみならず、世の中に少なからず沢山いるのだと思います。

お義兄さんからは、とても“大切なこと”を学ばせて頂きました。形には残らないインビジブルな何かなので、上手く表現が出来ないのですが、それはご家族に託された愛情やたくさんの宝物と近しい、大変尊いものなのだと思います。私もお義兄さんと同じように、自分の子供たちにも、その“大切なこと”をしっかりと伝えていきたいと考えております。

夏休み明け、突然の訃報

ごめんなさい。書かせてください。

こんなことがあってよいものだろうか?以前仕事で大変お世話になった方の訃報を突如知って、放心状態中。何があったのかは分からない。今更別に知りたくもない。兎にも角にも、死んじゃ駄目だろ。家族があるんだから。絶対に駄目だよ。あんなに家族を大事にしてたのに、本当に死んじゃったんですか?とても信じられない。やるせないし、非常に無念だ。

もう数年前になるが、同じ長期出張プロジェクトで寝食を共にした間柄でもあるし、直属の上司として大変お世話になった。仕事面のみならず、家族をとても大事にしていて、人間味のある先輩としても模範となる方だった。

会社内の昼食では社食を使わず必ず奥さんの手作り弁当を食べてて、仕事中に携帯の奥さんの写真を見せびらかして自慢したり、行きつけバーのオリジナルカクテルに自分の子供の名前をつけてたりと、、、一緒に仕事をしていた時はほとんど毎日、家族にまつわるエピソードや自慢話を聞かせてくれたのを思い出す。まだお会いしたことはないが、ボクにとっては既にもう身近な存在で、それだけに、残されたご家族のことがとても心配でならない。

何かしてあげられることはないものだろうか?とも思いつつ、今はただただ、謹んでご冥福をお祈りいたします。

環境ビジネス考えるよりも、目の前のゴミを拾いなさい

miyazack2008-08-03

ずいぶん前にTVでやっていた、中田英寿が世界を廻っている番組をビデオでようやく見た。その番組内、スウェーデンの北極圏に近い場所での1シーンをご紹介。

冬季限定で営業している氷のホテルを訪れて、中田がホテルスタッフにある質問を投げる。「日本の新聞で読んだけど、温暖化の影響で営業期間が年々短くなってるって聞いたけど?」それに対してホテルスタッフの返答は「正直遠い話かな?あまり実感はないね。だってまだ寒いもん。川も凍ってるし・・・」 〜(ナレーション)伝えられるニュースと現地の受け取り方に温度差があった・・・

じつは現実ってこんなもんじゃない?

日々マスメディアに接触していると、たとえば先日のサミットのときなんかも“地球温暖化待ったなし”的な様相を呈して見える。また、ビジネスの現場でも“環境会計”とか“排出権取引”、“CSR(企業の社会的責任)”などと言って、さも大層そうなことをやっているようにも見える。

でも実際はどうなんだろう?

これだけ馬鹿の一つ覚えみたいに一方通行的に情報を流されると、正直ちょっと気持ちが悪い。環境問題という大義名分で壮大なソリューションを考えたけど、結局それで懐が潤ってるのは、ごく一部の悪徳な権益者というような、ありがちの図式なんじゃないの?というついつい穿った見方をしてみたくなる。たまにアンチ環境本みたいなモノを書店で目にするが、じつは読んだことないけど、同じようなことを感じてる人って、結構たくさんいるんじゃないかなあ?

ちょっと話は翻って、ウチの子供たちが通ってる保育園でも、地元清掃局の人がやってきて、紙芝居で環境教育が施されたらしい。環境問題について、子供なりにいろいろと教えてくれた。

「“ちきゅうおんだんか”で北極の氷がとけて、シロクマさんやアザラシくんたちが困ってますよ〜!」

「ゴミはちゃんと“ぶんべつ”しないといけませんよ〜!」

「ペットボトルは“しげん”ゴミなんだよ〜」

「清掃局の人の制服はペットボトルの“りさいくる”でできてますよ〜」

わかりやすくてとても素晴らしい!

このまえ知り合いのなんちゃってコンサル君(一応外資系)から環境ウンチクを教えてもらったが、こんど会ったらこう言ってやろう。

「わけの分からないことばっか考えてないで、目の前のゴミの一つでも拾った方が世の中の役に立つんじゃないの?」

すぐに分かったようなことを言う人

最近こういう輩が増えてないか?仕事場などで話をしていると、二言目には、「知ってるよ」とか「分かってますよ」などと答えてくるヤツが多い。いったい何を知ってて、何が分かっているのだろうか?と思うので、逆にこんな質問を返すのだが、まともな答えが返ってくることは非常に少ない。

自分より目下の後輩だと、「う〜ん・・・」と素直に悩んだり、逆に怒ったりもしてまだ可愛げがあるが、それが目上の方だったりすると、面子やプライドが邪魔しているのだろうか?大抵の場合は「知ってるよ」とか言って、話を早めに打ち切って無難に収めようとする。仮にも人をまとめていく役割の者が、そんな短絡的な受け答えをやっててよろしいのか?「分かってるよ」の一言で話が終了してしまうのは、残念ながら、組織としては少々いや多分に病理的な現象なのではあるまいか?

例えばAという事象があったとき、それ自体は事実存在しているのだろうが、その見方だとか解釈の仕方は、個人それぞれ違うはずであり、その場にN人の人間がいたとすると、Nパターンの見方が出てくるのが普通だと思う。だからそれについて集団グループで議論する場合、ああでもない、こうでもないとか言って、混沌グチャグチャとなりながらも問題解決の糸口を協同して探っていくのが、むしろ自然な姿ではなかろうか?

それじゃあ、どんな風に答えたら良いのか?(≒どんな風に答えて欲しいのか?)模範解答をいくつか考えてみる。

解答例1:「(Aについて)まったく分かりません。」
かっこ悪いけど、知ったかぶりするよりはいいんじゃない?でももう少しヒネリが欲しいな。

解答例2:「(Aについて)ボクはこういう風に解釈してるけど、あなたはどう思いますか?」
悪くないけど、ちょっと高圧的かな?何となく「知ってるよ」オーラが出てる感じもして、実は建設的ではないのかも。

解答例3:「う〜ん、(Aについて)こんな感じかな?でもココがちょっと分からないなぁ。君はどうよ?」

お、なかなかいいんじゃない?このあいまいでゆるい感じが他者の共感を集めそうな気がする。

ということで、ボクはなるべく3番的な振る舞いでやっていこうと思っている今日この頃だけど、ちょっと最近、フラストレーションたまってるかも。。。

少しずつでも強くなっているということ。

miyazack2008-07-13

7月になってから、長男のプールのクラスが一つ上がった。本人曰く「プールはあまり好きじゃない」らしいが、「それじゃあ、やめるか?」って聞くと、「やめない!」って答えるからそのまま通わせている。どうやら、水に顔をつけるのがまだちょっと怖いらしいから「好きじゃない」らしい。なるほど。飛び込んだりして潜ったりするときに動きが非常にぎこちなくなる。それでも一つ上のクラスに上がったことで、ちょっとずつ前向きになってるのかな?

じつは昨日はちょっと風邪気味で、いつもだったら絶対行かないはずなのに(半ば強制的ではあるが)「熱がないから行くか!」って言うとイヤイヤながらもついて来た。しかもいざ始まってみると、前よりも少しレベルアップした練習の中で、“飛び込み”や“バタ足”をそれなりに頑張っていて、正直「へえ〜、やるなあ」と感心した。ちょっとでも上手になっていることを、5歳児なりにもちゃんとしっかり自覚してて、練習にも身が入っているみたいだ。

ふむふむ、ちょっと強くなったね。無理してプールへ行った甲斐があったかもな〜なんて思ってた矢先、あくる日の今日、ゴホゴホと咳が悪化してたりなんかして、、、ごめんね。パパもママもスパルタで。。。笑

魂がふるえる言葉 〜司馬遼太郎『空海の風景』より〜

この世にナマ身で存在した人間が、その死後千数百年を経ても(なお半神として)あがめつづけられるというつらさ、もしくは空海の場合、それが自然以上の自然さをもつというのは、どういう機微によるものであろう。<『空海の風景』一>

空海は考えている。

自分がいま生きているということを考える場合、(自分という戸籍名も外し、)人種の呼称も外し、社会的存在としての所属性も外し、さらには自分が自分であることも外し、外しに外して、(ついに自分をもって一個の普遍的生命という抽象的一点に化せしめてから)はじめて物事を考えはじめるのである。<『空海の風景』四>

この稿の題を、ことさら「風景」という漠然とした語感のものにしたのは、空海の時代が遠きに過ぎるとおもったからである。(遠いがために空海という人物の声容をなま身の感覚で感じることはとうてい不可能で、せめてかれが存在した時代の−それもとくにかれにちなんだ風景をつぎつぎに想像してゆくことによって−あるいは)その想像の風景の中に点景としてでも空海が現れはしまいかと思いつつ書いてきた。<『空海の風景』二十八>

(筆者は)ともかくこの稿を書きおえて、なにやら生あるものの胎内をくぐりぬけてきたような気分も感じている。(筆者にとって、あるいはその気分を得るために書きすすめてきたのかもしれず、ひるがえっていえば)その気分も、錯覚にすぎないかもしれない。そのほうが、本来零であることを望んだ空海らしくていいようにも思える。<『空海の風景』あとがき>

NHKスペシャル空海の風景』ラストシーンより〜